こずえ
ファックスが紙を吐き出す音で眠りから覚めた。
ぼんやりとした意識の中で、ああしまったな、と呟いた。
起きたところで何かやるべきことがあるわけでもない。どうせならずっと眠ったままでいたかった。そんな後悔だった。
仕事にはもう一カ月近く行っていない。会社に行かなくなってから最初の一週間ぐらいは、ひっきりなしに電話が掛かってきていたが、無視を続けているうち終いには何の音沙汰も無くなってしまった。まあ、仕事とはいっても学生のアルバイトに毛が生えたぐらいのものでしかない。今さら未練もなかったし、それは会社側にしても同じことを思っているだろう。所詮僕のような人間が一人抜けたところで社会に穴があくわけもないのだ。
今何時だろうか。そんなことを考えながら上体を起こした。
カーテンは閉め切ってあり部屋の中はほとんど真っ暗だった。今が昼のなのか夜なのか、それも判らない。部屋の暗闇に時計を探すつもりで目を凝らしたのだが、思わず赤く明滅を繰り返す光を見つけることになった。ファックスの着信を示すランプだ。さっきの音はあれの音だったのだろう。
重い身体を何とか持ち上げ、小さな赤いランプの方に向かおうとベッドから足を踏み出した。
その足に何かを踏みつけた不快な感覚が襲った。起き抜けの頭を働かせてベッドに入る前の部屋の様子を頭に思い浮かべた。弁当の空き箱だろうか。その類であることは間違いない。それが昨日の物か一昨日の物か、或いは一週間前の物か二週間前の物か。そこまではもはや想像の及ぶところではない。そんな物はこの部屋にはいくらでも転がっているのだ。
思いを巡らすことの愚かしさに気が付いた僕はそれを止めて、床一面に散らばるゴミの山を踏み散らしながらファックスの方へと向かった。
無数のゴミの山からファックスを掘り起こし、僕は送られて来たばかりの用紙を乱暴に切り取った。
《回収資源は定期的に委託処理しましょう》
小さな照明に照らされたその紙面には、そんな見出しが躍っていた。
どうやら市の衛生局からのDMらしい。それにはゴミ収集機の設置場所や利用料金が記載されていた。資源濫用のやり玉にあがっている昨今の紙メディアでそれを受信するとはなんとも皮肉な話だ。
しばらく立ったままで僕は考え事をしていた。いや、そうではなかった。何か考えなくてはいけないと焦りながら、その実一体何を考えなければならないのか、その答えを探し呆然としていたのだ。
そのとき部屋の中に安っぽいチャイム音が響いた。唐突に我に返った僕の体は、考えるよりも先に玄関へと向かっていた。1LDKのアパートの部屋を横切る僅かな時間の間にも、外から女性の声が騒がしく僕の名を何度も呼んでいた。
何とか玄関までたどり着いた僕は(その行程もゴミの山を踏みわけながらのものなのだ)鍵を外し、少し開けた扉の隙間から顔をのぞかせた。
扉の前に立っていたのは、このアパートの管理人だった。僕の顔を見てやや怯んだような様子を見せた。それはそうだろう。真っ暗な部屋から、眠たげな目で不精髭も伸ばし放題の酷い顔がヌッと現れたのだ。
女は僕の顔を見て何か別のことを言いたそうな表情になったが、それを飲み込むようにしてから話を切り出した。
「ええと、私ここの管理人ですけど。他の住人の皆さんからの苦情がありましたので、それを伝えにきたんですけども。あの……ちょっと言いにくいんですけどね。最近ねぇ、この部屋から変な臭いがするって、他の住人さんから言われるものですから……」
女は度々口ごもりながらも、要するに部屋のゴミを捨てるように、という内容のことを勧告していた。
その粘りつくような口調にうんざりした僕は、女の言葉を途中で遮り、何とかしますから、と適当な言葉で追い返して扉を閉めた。
深い溜息と共に、僕は背中を扉にもたれかけさせた。胃液が喉元までせりあがってくるような苦い感覚があった。
そのまま腕を伸ばし壁のスイッチに手をかけた。
蛍光灯の明かりによってあらわになった部屋の様子は、自分でもめまいを覚えるほどの酷い有り様だった。空き缶、食べ物の屑、読み古した雑誌。そんなものが部屋中に、ただ混沌という一字をもってのみ存在していた。部屋の空気は確かに淀みきっていた。
*
こんな状態になったのには、もちろんわけがある。
ゴミの回収の有料化が始まったのは、もう大分昔の話になる。ちなみに今ではゴミという呼び方はせず、どんなゴミでも回収資源と呼ぶのだそうだ。
エコロジーだとかリサイクルだとか、そんな単語が世間に溢れ始めた頃。それらによって僕らの生活は、徐々にではあるが、しかし確実に変わっていった。その間、ゴミ処理の費用は年々増していき、今ではそれが生活費の大部分を占めるまでに至っていた。極端な話、ある商品を買うことにおける経済的負担はその商品本来の代金の十倍を超えることだってあるのだ。
僕らのような貧乏人はゴミを捨てる費用に窮々とし、家にゴミをため込む傾向にあるようだった。市の衛生局が(無論民間の営利的な問題も絡んでいるだろうが)各家庭に頻繁にDMを送って案内を出している様子を見てもその状況は容易に想像がつく。もっともアパートの管理人から勧告が来るまでに事態が悪化している例は稀だろうと思うが……。
衛生局からファックスが届き、管理人から勧告を受けた次の日、僕はパンパンに膨らんだゴミ袋を一つ抱えてアパートを出た。部屋にはまだ同じような袋がたくさん残っている。とりあえず詰めてみました、という如何にも横着な仕事だ。種類ごとに分別することなど、これっぽっちも考えていない。そのことを僕はすぐに後悔することになった。
いつも僕が弁当などを買いに行くコンビニの裏側に、収集機が一つ設置してある。場所自体は以前から知っていたのだが、実際その機械を間近でみるのはこれが初めてだった(ゴミ出しはかつての同居人の仕事だったのだ)。
大きさはジュースの自動販売機ぐらいのもので、取り立てて目立つというわけでもない。これと同じ物が市内に何百何千とあるのだから、そうそう大がかりな物も作れないのだろう。この機械では収集だけをして、あとから専用の車で回収して処理場へ送るというのは知っている。
僕が恐る恐るそのタッチパネルに触れると、ポーンという軽い音がして、
《貴方のお名前と住民番号を入力して下さい》
というメッセージが画面に表示された。僕は眉間に皺を寄せてその文字を見つめた。
たかがゴミを捨てるだけなのに、これは大袈裟に過ぎるのではないかと思ったのだ。衛生局は市民一人一人の出すゴミをいちいち管理・把握している。そういうことなのだろうか。いずれにせよ、こういったシステムが昨日や今日突然できたというわけではあるまい。今さらながら、自分が社会に取り残された酷く卑しい存在であることを非難されたように感じ、不快だった。
だがここで僕が不平と唱えてみたところで、どうなるわけでもない。渋々名前と住民番号を入力することにしたのだが、その後に出てきた画面にはさすがに面食らった。
《処理を委託される回収資源の種類を選択してください》
そのメッセージの後、画面がびっしり埋まる程のゴミの分類名が表示された。発砲スチロールやパルプなど、中にはよく知った分類名も存在したが、そのほとんどが僕の知らない名称のゴミ、もとい回収資源なのだ。
僕は手に持ったゴミ袋に目をやった。
当然それらは適当に詰め込んだだけのもので、分別されているとはどう婉曲に表現しても言えそうになかった。よしんばアパートを出る前に分別することに気付いたとしても、コンピュータが要求するこれらの分類をこなせるとは思えなかった。
しばらく画面を見つめた後、僕は収集機の取り消しボタンを押してその場を後にした。この機械でゴミを捨てる気は完全に失せていた。分別するのが面倒だというのはもちろん、何にも増して個人の出すゴミをこれほど徹底的に管理しようとするシステムに反感を覚えたのだった。
*
次の日の朝、早くから起きた僕は前日のうちに借りてきた軽トラックでアパートを発った。後ろの荷台には夜のうちにアパートの住人の目を避けながら積み込んだ大量のゴミ袋の山があった。
さすがにうしろめたさもあり、荷台にはシートが被せてある。途中すれ違うゴミ収集機をいくつも横目で見ながら、僕はトラックを走らせた。
目的地は特に決めていなかった。ゴミ袋を始末できるところならどこでもよかった。どこか遠くの公園や川原、郊外の人目に付かないような場所。そんなものはどこにでもあると思っていた。
だが、車を走らせてから一時間もすると、僕は言いようもない不安に駆られることとなった。
こっそりとゴミを捨てられるような、街の死角と呼べるような場所がどこにもないことに焦りはじめたのだ。
考えてみれば僕は今まで、街の外観というものに無頓着であり過ぎたのかもしれない。気が付いたときには僕の知っている街はどこにもなく、ただ果てしなく無機質な、寒々しい空間が広がっているだけだった。
宅地や商店、オフィス街。そんな違いは確かにあったが、そのどれもが同一の、《臭い》のようなものを発していた。この街はあまりにも清潔過ぎた。汚れというものが全くなかった。こんな不自然さにどうして僕は今まで気がつかなかったのだろうか。
僕は酷く疲れていた。運転に疲れたということもあるが、それよりも殺伐とした街の景観にあてられ、これ以上それを目にすることが堪え難かった。
どこかに車を寄せて少し休もう。そんなことを考えていたそのときだった。突然道路を横切る小さな影が視界に飛び込んできた。
急ブレーキ。
ほどんど間一髪といっていい、ぎりぎりの間合いでトラックは止まった。その影は、といえば全く動じたふうもなく道路を渡りきって、今や歩道に達していた。
真上に差しかかった太陽の光を受けて、そいつは鈍い銀色の光を放っていた。パンパンに張った家庭用ゴミ袋のぐらいの大きさで、ほとんど球状といってよいそのボディには、まん丸な目とニンマリ笑った口が描かれていた。
僕は車を走らせるのも忘れて、そいつが飛んでいく姿を追っていた。初めて目にする物ではない。僕はそいつを知っていた。
彼らは外に落ちているゴミを拾い集める清掃マシンなのだ。昼夜を問わず町中をふわふわと飛び回り、空き缶やゴミ屑を体から伸びたノズルで吸い上げることが彼らの仕事だった。言わば都市の衛生を守る尖兵と言ってよい。先日もニュースで近年中に全国に何十万台とかいう数字が発表されていたのを覚えている。
《ごみ丸くん》。そのセンスのない名は全国からの公募で付けられたものらしい。…イヤ、そんな名前などどうでもよかった。問題なのは彼らの製造・配備にかかる費用が僕たちの出すゴミの処理委託料金を高騰させているという事実だった。
僕の今の苛立ちをぶつける矛先として、これほど適切なものはないと言えた。
ぶつけてやればよかった、心の中で思ってもいないそんな悪態をつきながら、僕が再び車を走らせようとしたとき、先ほどの《ごみ丸くん》が一つの細い路地の方を向いて突然けたたましいサイレン音を発した。
僕も含め、その場にいた通行人は皆その方向に注意を向けた。見ると、その路地から一人の男が駆け出して来た。肩に大きなゴミ袋を背負っており、それが何か漫画に出てくるような空き巣を連想させ、男に滑稽な印象を与えていた。
男は《ごみ丸くん》の体を押しのけると、大通りを横切り猛然と走り去っていった。男の様相はともかくとして、これは滑稽な話には違いなかった。男に突き飛ばされた《ごみ丸くん》は、紐が付いた風船のように、上下左右にぎこちなく揺れたが、体勢(?)を整えるとすぐにサイレンを鳴らして男が走り去った方向へ飛んでいった。いつもの動きと異なる意外な速さだった。
「カイシュウシゲンノフホウトウキハ ホウリツデキンジラレテイマス。スミヤカニ……」
警告を発するその音声は、いまどきわざとらしい程にたどたどしい電子音だった。遠くでまだ鳴り響いているサイレン音がこの上なく不快だった。
僕はあれを単なる清掃マシンだと思っていたのだが、どうやらそれは誤りだったらしい。愛嬌あるあの容姿で街角にその数を増やしていくそれには、人間の見張りという役割も与えられているのだった。この街の清潔さが、いっそうグロテスクなものに感じられた。
《ごみ丸くん》と《ごみ丸くん》を作り世にばら撒いた人間に対する憤りや嫌悪感はもちろんあったが、不法投棄を咎められたのが自分でなかったことに、僕はとりあえず安堵した。そして、僕がこれまでやろうとしてきた事が犯罪である、ということを改めて実感したのだった。
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