社名のロゴが入った襟章を外しながら、モーリッツ・コーエンは地下鉄車両の窓に映る自分の顔を真正面に見ていた。あまり十分とは言えない光量によって映し出されたその顔は、深い陰影とも相まって暗く沈鬱な印象を帯びて見えた。
その死人めいた形相に自分でもギョッとした。
《疲れているのか?》
そう自問してみた。
取引会社との長時間に及ぶ綿密な打ち合わせの後だった。確かに疲れてはいるだろう。仕事を生きがいに感じるような順良な人間でもない。これから職場に戻って行うべき煩雑な作業について気がふさぐ思いもあった。しかしそれも取り分け今日に限ったことではない。硬く凝った首筋はいつものことであり、気分はと言えばこれもまた、煩累なく晴れ渡ったことなど久しく覚えがなかった。そう、なにも今日が特別ではないのだ。
見飽きた自分の顔などあまり繁々と見つめていたいものではなかったが、こうして正面にある以上は差し当たって視界に留めておく他ない。頭一つ動かすのも面倒でならなかった。
《確かにオレは疲れているのだろう》
自分の発した問いにようやっと答えると、それで安心したように手の中の社章を背広のポケットに収めた。
ほどなくして、車両は地下部を抜け上蓋の開けた走行区間に出た。途端、これまで黒いばかりだった窓からは明るい陽の光が一斉に射し込み、車内を白く照らした。目蓋を開けると、正面の窓に移った顔は既に光の中に溶けて見えなくなっていた。
車両は速度を落とし、停車駅が近いことを知らせていた。車両が完全に停車するのと合わせるように、モーリッツは淀みない動作で、座席から立ち上がると短く三歩歩いて立ち止まった。溜息のような圧搾音が鳴る。一拍措いてから右の親指で開閉ボタンを押し、左のつま先からホームに降り立った。
駅を出たすぐ側の小さな路地に居心地のいい書店がある。オフィスに戻る前に、そこに寄っていくつもりだった。駅の構内を歩きながら、もう残り僅かな頁数となった読みかけの本のことを思い出していた。
今の時間帯、駅の混雑はさほどでもない。学生の往来が多少目につくが、それもピークを迎えるのはもう少し後のことだった。
モーリッツが真っ直ぐ進んでいく先、駅の出口付近には少しスペースが取られてあり、そこには木造りのベンチがいくつか並べて置いてあった。稀に外国の観光客らしき人たちが休んでいるのを見る以外は、ほとんど使われる様子のないベンチだ。いつものモーリッツであれば、通行の邪魔だと思うぐらいでほとんど気にかけることのないベンチなのだが、今日はどうやら急にその気になったらしい。まるで最初からそうと決めていたかのようにベンチに向かってスッと進むと、その中の一つに軽く腰を下ろした。
気が変ったのは、ベンチの上に真新しい感じの新聞紙が乗っているのを見たからだった。摘まみ上げた新聞紙の日付を確認する。六月二二日。それは昨日の日付だったが、モーリッツは構うことなく紙面を広げて食い入るように読み始めた。
モーリッツの会社の同僚にエッガースという男がいる。いつもはそのエッガースがS紙を会社まで持ってくるので、それを借りて読むのを常としていたのだが、そのエッガースが先週から休暇に入ってしまったために、モーリッツはしばらく新聞にありつけないでいたのだ。
その新聞は普段読むような全国紙ではなく、どこかの地方紙のように思われた。S紙の論調に読み慣れていたせいもあるだろうが、記事は新鮮な切り口でなかなか読ませる。エッガースが休暇から戻ったら購読紙の変更を薦めてやろうと思い発行元などを探したが、見つかりにくかったのでそれはすぐに諦めた。
大きく設けられた採光用の窓からは初夏の陽射しがいっぱいに入り込み、駅構内の空気を程よく温ませていた。新聞を読みながらモーリッツはすっかり寛ぎを覚えていた。うっかりすると、そのまま居眠りを始めてしまいそうなほどだ。
だが、あるページをめくったとき、モーリッツは思わず顔をしかめることになった。紙面にマジックで書き殴ったようなメモを見つけたのだ。
M市全域とその周辺の概略図に×印が二つ、それぞれから矢印が伸びて“跳躍点”と大きく走り書きがあった。何のことだか分からない。書いてある記事と関係があるのだろうか?
記事自体はM市の都市開発事業に関する提言文のようだった。どこのメディアでも、もう何年も取り上げ語られ続けている話題だ。特に珍しいことはなかった。
改めて地図に記された×印の位置を確認する。一つは、M市の外縁のあまり馴染みのない場所だったが、もう一方はどうやら今モーリッツがいる駅のあたりを指しているように思われた。一瞬、テロの標的でも指し示されているのかと思ったが、それにしては“跳躍点”という言葉がしっくりとこない。
他愛のない単なる子供の落書きとも思えなかったが、どこか絵空事のような現実味の無さを感じさせるメモ書きだった。
ふと、目を止め顔を上げた。
「…………」
目の前には見知らぬ男が一人無言で立ち尽くしていた。金と黒のまだらに染め上げた髪が異彩を放っている。濃い青の色眼鏡ごしにモーリッツを……、いやモーリッツの持っている新聞をジッと見つめていた。
全身から偏執的な危さを漂わせた若者だった。
とにかく厄介事には近づかず、可能な限り平穏無事に生きるということはモーリッツの信条とするところであったが、もしこんな場面に出くわしたのならモーリッツに限らず誰しもがその場から逃げ出したいと思うに違いない。むしろ、男に気付いた時点で跳びあがって逃げ出すというのが、正常な人間の反応と言えるのかもしれない。
モーリッツは身体を硬くさせ、男の動きに全神経を注いだ。
既に二人はのっぴきならない距離にあった。一歩間違えば直接的な被害がモーリッツの身に及ぶことも十分考えられた。
モーリッツも上背はあるほうだが、目の前の男も同じか或いはそれ以上長身のように見えた。何より黒いシャツの上から見える肉付きがモーリッツのそれを遙に凌駕していた。殴りかかってこられでもしたらただでは済まないだろう。
駅構内には今この瞬間も絶えず人通りはあるが、ひとたび事が起これば誰かの助けを待つ前に重症を負う羽目になるのは目に見えていた。ジャンキー相手に、そうした周囲の状況は何の助けにもなり得るはずがない。
モーリッツは一貫して無表情で、外見には至って平静そのものに見える。モーリッツはこれでなかなか図太いのだ。それはモーリッツを知る人間であれば、誰もが顔をしかめてそう証言するほど折り紙付きの図太さだった。
だが、この状況ではさすがのモーリッツも心の中で悪態をつかずにはいられない。とんだ災難だった。つい数秒前の寛いだ気分はとうにふっ飛んでいた。
慎重に、男の視線を窺いながら、モーリッツはゆっくりと新聞紙を閉じて折りたたんだ。
男は動かない。相変らず新聞紙に視線を置いたままだ。
次にモーリッツがすべきことは、そのままその位置に新聞紙を残し、身体だけを横に滑らせて取り敢えずの退路を確保することだった。
その後は新聞紙を放り出して一目散に走って逃げ出す。少し格好は悪いが、そんなことに構ってはいられない。
腰を浮かしかけたそのとき、男が大きな手の平を広げてこちらに差し出してきた。
モーリッツは一瞬虚を突かれたように固まったが、それも僅かな時間だった。差し出された手の意味するところを理解するや、間髪をおかずその手に新聞紙を握らせた。
最初に感じた男の印象からすれば、考えられないほどの紳士ぶりと言うべきではないか。
新聞紙を受け取ると男は踵を返し、少し離れて向かい合った向かい側のベンチにドッカと腰を下ろした。そしてすぐに新聞紙を広げ何かを慌しく探し始めた。
どうやら危惧したような事態は避けられたようだが、モーリッツはまるで腰でも抜かしたかのように、その場から動くことができなかった。そのまま呆然と、慌しく新聞をめくる男の姿を眺めていた。
不意に男の動きが止まった。
それと同時に、モーリッツもようやく平時の冷静さを取り戻したようだ。今頭の中では、目の前の男のただならぬ様子と、先ほどモーリッツが目にしていた新聞のメモ書きが、しっかりとした線で結びついていた。
男が目を止めて見入っているものが何なのか、モーリッツの位置からそれを窺うことはできなかったが、改めて確かめるまでもなくそれがあのメモ書きであることは明らかだった。モーリッツには、それがほとんど直感的に分かった。
分からないのは、あのメモの意味だ。テロの標的という最初の直感も、あながち遠くはないのかもしれない。あるいは、地図上に示されていることによる表層的な意味とは別に、何か暗号めいた意味合いが含まれているとは考えられないだろうか……。
男はなおも動かず、ただ黙々と紙面に見入っていた。あの暗号を解こうと思惟に耽っているのだろうか。それにしても長い時間微動だにしない。辛抱強くそれを見守っていたモーリッツも苛立ちを覚えはじめていた。
やはりモーリッツが最初に感じた印象のとおり、男はドラッグの常習者か何かで、全ては頭をおかしくした男の奇行に過ぎなかったのか……。
そもそも、たまたまここに置き捨てられていた新聞に、たまたま誰かのメモ書きが残されていただけの話だ。そんな落書きにどんな意味もあるはずがないではないか。
モーリッツは、自分の突飛な妄想を恥じ入るような気持ちになった。
そうだ、テロとか暗号とか、謎めいた陰謀を想像するなど妄想としか言いようがない。
鼻を鳴らしてベンチから立ち去ろうとした、その時、ハラリと新聞紙が地面に落ちたのだ。
「…………」
自らの鼓動の音に鼓膜が大きく震えるのを感じた。
それはあってはならない光景だった。
目の前にあった男の姿が、一瞬にして、忽然と消えてしまったのだ。
ハッとしてあたりを見渡す。これもまた不思議なことだが、通行人は誰一人として今ここで起こった出来事に気付いた様子がない。そのことが、まるで自分ひとりが見知らぬ世界に取り残されてしまったかのような、奇妙な寂寞感を感じさせた。
自分は今幻覚の中にいるのだろうか?いや、あるいは今まで目にしていたものが幻覚だったのだろうか?
モーリッツはやおら立ち上がると、ゆっくりとした歩調でそこに近づき、地面に落ちた新聞紙を慎重に拾いあげた。
何が分かるわけでもないのに、紙面を擦り合わせ手触りを確かめずにはいられなかった。
広げられたページにマジックで記されたあのメモ書きが目に飛び込んできた。
「……跳躍点……」
声に出して呟いてみた。
子供じみた陳腐な言葉がただ寒々しく響いただけだった。
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