マグカップの壁には、ココアの乾いた跡が茶色くこびりついていた。
底に残ったわずかな液体を、僕は仰いで口に流し込もうとした。
のろのろと中の壁面をつたい、ようやく口元まで達したその液体は、舌の先をほんのわずかに濡らしただけで、僕の乾きを癒すには至らなかった。
一度カップを降ろし、しげしげとカップの底を見つめた。なおも未練がましく、再びカップを裏に返そうとしたとき、背後に座っていた男が思いがけず大きな声でこう言った。
「ユウガさんよう。上行って早いとこ呼んできたらどうだい?」
ユウガとは、僕の名前ではない。僕の所属する興行団体の社名である。
振り返った僕に、その男はあてつけのつもりなのか、あくびのジェスチャーをしてみせた。動作に反し、その男の目はしっかり見開かれていた。机一つ隔ててはいるが、その目から苛立ちの色がはっきりと見て取れた。
僕は男から顔をそらし、あるかなしかの唾液を無理矢理ためて飲み込んだ。
「まあ、そう慌てることもないでしょう。もうこんな時間だ。今晩中で話が付くなんて、誰も思ってないですよ。それに……」
そこで、僕はあくびをして目をこすった。僕のは本物のあくびだ。ここにきてようやく体が疲労を覚えていた。
「それに、2階から最後に降りてきたのは、もう何時間も前にウィスキーのボトルと氷を取りに来たきりだ。きっと今頃皆いびきかいて眠ってるんじゃないですか?」
「けっ」
男……藤原翔は、両手を頭の下に組み、ソファーに仰向けになった。反り返った弾みで、ソファーがキッと高い音を発ててズレた。いささか大袈裟とも思える藤原のそんな動作は、やはり役者と言うべきか、妙に板に付いて見える。
「でも、実際。もう話は付いたんじゃないですか?岩崎さんが降りてしまったんじゃ。僕らでどう話をこね回して舞台は……」
部屋の隅の小さな丸椅子座っていた道下が力無い声で言った。
道下の言葉はいつでも正論を外すことはない。裏を返せば、面白みがないということなのだが、我の強い役者たちの中にあって、この男の無個性ぶりは、それ自体強烈な個性ではないかとも思えてくる。
道下の手前で、藤原の左隣の位置にいるのは、構成作家の大塚だ。この中では最も年輩で、頭にはだいぶ白髪が目立つ。僕たちの話を聞いているのかどうか。眼鏡を外して目頭を押さえ沈痛な面持ちで座っている。
そしてテーブルを挟んで、僕の目の前には、上田美和子が何時間も前と変わらぬ様子で水割りを口に運んでいた。
これが今、この部屋にいる全員だ。ほんの2分ほど前には、ここにさらに岩崎が加わり不毛とも思える議論を延々と繰り広げていた。いや、いっそ不毛以外のなにものでもないと言い切って良いだろう。岩崎が帰ったことで、そのことが殊更明らかに見えた。
「舞台は立たねーよ!見りゃ分かるだろ」
しんと静まった部屋の空気に、藤原の荒だった声が響いた。
僕もそう思う。このままでは舞台は立たない。しかし……。
「立たないじゃ済まないの。分かってるでしょ?」
美和子が静かに言った。藤原が全身で発した沈黙が、背中越しに伝わってくるようだった。
この先何ヶ月にも渡って入れてある公演用の舞台場の予約。宣伝費にも多額を投じている。既にチケットもかなりの数をさばいてはいるが、まだ経費を回収するには至っていない。もっとも、舞台場のレンタル料支払い日の初回が、明後日に控えていることは、この場にいる僕と、既に去った岩崎しか知らないことなのだが……。
舞台公演には異例の宣伝予算も、スポンサーの岩崎のバックアップを見越してのことだった。そのスポンサーの岩崎が今日の会合の際、急にゴネて帰ってしまったのだ。
あるいは、誰かがこう言うかもしれない。
(そんな程度、修羅場でもなんでもねーんだよ)
もちろんそうだ。舞台を成立させる。それが僕の仕事だし、これまでもそれで食ってきたという自負はある。単に出資者がへそを曲げたという程度の障害ならば、それこそ易々と越えてみせようではないか。しかし僕が……、ここにいる全員が焦燥を覚えているのは、そんなことではなかった。
確かに美和子が言ったのは、舞台を成り立たせる上での問題には違いなかったが、運営資金と岩崎の問題が、事態の混迷を婉曲に指し示すために引き合いに出されていることは、今この場にいる誰の目にも明らかだったのだ。
舞台公演を間近に控えた僕たちには、物語がなかった。
構成作家の大塚が、痰のからまった声でボソリと言った。
「時間がない。続けようじゃないか」
事態の元凶たるこのご老人からは、いささかのてらいも感じられなかった。
深い疲労はこの場にいる誰よりも表に見てとれたが、それは総て、慣れない夜更かしのためなのではないか、との印象を受ける。
3人の舞台役者は、その視線に老人への非難の色を隠そうとはしなかった。
僕は、といえば、この老人が今朝方姿を見せるまでにあらかた怒りを発散しきっており、もはや侮蔑にも似た白けた感情しか湧いてこない。岩崎は散々この老人への怒りをぶちまけただけで帰ってしまった。
結局のところ、この老人が、何故事前に周到な準備をほどこしてまで脚本がないことを隠し続け、自分も今の今まで姿を消すなどという馬鹿げた行為をする必要があったのか、何一つ明らかになってはいないのだ。
僕たちがここに集まって何時間が経つだろう。拳を振り上げる若いスタッフ達をなだめ、2階へ押しやったのは何時間前のことだったろう。
ただ、大塚は言うのだ。
「本はない。だから今作る以外に手はないんだ」
大塚の主張は、ここにいる誰よりも一貫していた。
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